隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

日本では〇〇人、〇〇に行けば日本人

 

朝の番組で、たまたま中国残留邦人の通う介護施設の紹介があった。

 

年をとってから日本へ帰ってきたものの

30年以上、それも一番活動的な年代のときに過ごした国での習慣は

なかなか変えられない。

「私ら、日本では中国人と言われ、中国では日本人と言われる」

 

中国特有の香辛料が使われた料理、中国語が話せるスタッフ。

当たり前にされる中国語でのおしゃべり。

ここではまるで生き返ったかのように楽しいらしい。

慣れ親しんだ景色、味、言葉が広がる環境は、何よりほっとするのだろう。

緊張を強いられる環境は、年をとればとるほどきっとしんどい。

 

「日本では中国人と言われ、中国では日本人と言われる」

 

あれ、こんなフレーズ最近、何度も耳にしている。

Twitterで拾うハーフの人たちの言葉だ。

「私たちのアイデンティティーはどこ?」

「どうして初対面の人にいきなり、アイデンティティーについて質問するかなぁ!」

若い人たちの鼻息は荒い。

 

高3の息子に「大阪なおみさんって日本人だと思う?」と聞いてみた。

「思わん」と即答。

「どうして?」

「日本語できひんやん」とこれまた即答。

いつも率直な言葉を吐き出す息子だが、ときに真実が見えドキッとする。

 つまり…育った環境・文化がその人をなす軸ってことやんな、彼の言いたい真意は。

 

もう、〇〇人とかどうでもいいと思う。

それよりもどこで幼少期や青年期を育ちましたか?の質問の方が

よっぽどその人をつかむのに手っ取り早いんじゃないかしら。

 

 

*****

 

しかし成人後、来日し、日本人と結婚してしまい

日本に住んで30年になろうとしている夫の言葉には、いつまでも違和感がある。

「日本なつかしいわ」

「日本のごはん食べたいわ」

母国での滞在が長くなると決まって出るが、なつかしいって…??

そちらのごはんが生まれたときから慣れ親しんだ味じゃないの?

何度言われてもすっと共感できない、ゴメンやけど。

 

そして最後に決まってこう言う。

「家族がいるところが日本やからなぁ」

つまり、家族がいるところが彼の帰る場所という認識らしい。

 

こんな生の声を耳にすると

やっぱりアイデンティティーがどこ?なんて話はどうでもいい気がしてくる。