隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

ときには器官を休ませよう

 

個々の器官は忙しくなっている。

 

学校に通う子供たち(高校生)の耳には常にイヤホンが入っている。

電車に乗れば、車窓に映る景色を眺める人は少なく、皆がスマホを見つめている。

遠くの景色を見ると目によいとわかっていても。

 

耳からの情報、目からの情報が脳に伝わり

それにともなって頭も忙しく働く。

学校へ向かう学生、仕事に向かう人たちにとっては

いいウォーミングアップだろうか。

学校に着いてから、会社に着いてから、すぐに動き出すための。

 

なんて忙しい国になってしまったんだろう。

 

珍しく連休になった数日、久しぶりに編み物をしてみた。

スヌードなのでひたすらまっすぐ編むだけ。

お気に入りの毛糸さえ手に入れれば、気軽に楽しめる。

模様にもよるが、数日で仕上がるというのも嬉しい。

 

いつもは字ばかり追っているが、このとき見るのは編み地の模様。

久しぶりなので、指の運びがまだまだ定着していないせいか

つい目飛ばしをしてしまうので、ときどき全体を眺めなくてはならない。

 

お気に入りの毛糸が目に映り、やっぱり好き、この色などと思う。

このスヌードをする人のことを思い、編み棒を進める。

静寂の中、心が静かに落ち着いてくる。

 

ときどき頭に浮かぶ仕事のこと。

どんな声かけで人は動くのだろう、どうサポートをしていけばいいのだろう。

考えるとはなしに考えているが

手は編み物をしているので答えを出そうと必死にはならない。

まず相手の話すことを聞かないとね、と思う程度。

 

方法の良し悪しよりも自分自身の意図、心もち。

そこに立ち戻るには、静寂が必要なのかもしれない。

雑音が入りすぎない状況で時間を贅沢に使い、頭を遊ばせられる静けさ。

 

方法に正解はない。

いつもうまくいく声かけなんてたぶんない。

意図さえ正しければ、パッと見にはいいことと思えなくても善い行動なのだ。

 

善い行動さえできていれば、自分にとっていい結果がくる。

いいとは思えない結果であっても、タイミングが悪かったとしても

きっと自分にとっては最高の結果が来るはず。

こう信じられれば迷うことは何もない。

 

 正解が見えにくい情報過多の世の中だからこそ

自分の意図の奥底までも見つめ、整えながら進むことは大事だと思う。

 

本当は何もしないでヨガのポーズをするんでもいいんだけどな。

そこがまだまだ忙しがりから脱出できず、編み物なんぞしてしまっている。

 

時間にけちって、はずかしいな。

こう思えるようになった私は、昔より少し人間らしく生きている。