隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

だれに対してもニュートラル

 

トップとその直属の部下たちが韓国人という会社の話をしていたときのこと。

 

「え、みんな韓国人なの?知らなかった。〇〇さんと〇〇さんは知ってたけど」

と明るく話す私に、友だちは声をひそめるように言う。

「みんな在日だと思うよ。ま、そこはつっこむとこじゃないけどね」

彼女は私をたしなめたつもりだったのかもしれない。

 

しかし、私は思う。

声をひそめ、口を閉ざす…これこそが差別している証拠だと。

在日という呼び方は好きではない。

ただ単にルーツが韓国にあり、今日本に住んでいる。

それで十分ではないか。

日本に来た経緯が問題だというのは知っている。

無理やりだったのか、半ば自らすすんで来たのかは個人によって違うだろう。

でも今はもう次の世代が十分な大人になっているのだ。

在日と声をひそめるのは古いと思う。

 

ただ私が言いたかったのは

ルーツが韓国にあるのなら当然、純日本人とは違う感覚があるだろうなということだ。

ハーフであるうちの子たちのように。

それを話題にすることがどうしてよくないことなのか。

私には疑問だ。 

 

自分のルーツについて当たり前にまわりに伝え

受ける側は、ただそうなんだと受け止めればいいだけなのに

どうして言う側が緊張したり、聞いた側があせったりする必要があるのだろう。

・意識していないふりを装う

・日本人のように振る舞えることをほめる

・日本のルールに従えないことに対し気の毒に思い、世話を焼きすぎる

これらはすべて、国際的な国の国民にしては不十分、まだまだ途上だと感じる。

 

日本人のようになれないことを、そりゃもっともだ、とただ受けとめる。

感情は入れない。

じゃあ、どうしましょう?どこか困ってる?手伝いいる?

これだけの言葉で十分だ。

 

深く思いすぎない。

事実をそのまま、軽くも重くもせず受け止める。

相手が日本人のようになりたいと思っていない可能性もおおいにあると

ちゃんと頭に置いておくだけの知性、広い視野は持っておきたい。

 

ニュートラル。

車でいえば、ギアが入っていない、力の入っていない状態のこと。

人、みなすべてに、ニュートラルに接することが私の目標だ。