隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

父の死に際して思うこと

 

父が亡くなった。

「もういいよ、十分だよ」というような満足げな表情を最期に見せてくれた。

その顔を見て私も満足し、きりがつき、父のいる病室から立ち去ることができた。

いつも家族のことを気遣ってくれた父だった。

彼は彼の人生を十分に生きたのだろうと思いたい。

 

葬儀の間、父を見送る、そのことだけに集中したかった。

しかし気持ちはいつも揺れていた。

 

宗教的な意味で本当に信じているのならいい。

人それぞれの信仰は心から尊重している。

でも親を見送るということの中心に他人をおき、商売を絡ませ進む葬儀。

違和感ばかりだった。

 

こういったことに無頓着な父はきっと気にしていないだろうし

どれかといわれれば仏式での葬儀をやはり望んでいただろうから

今回のやり方に異論はない。

そう言い聞かせながら臨んだ式だった。

私にとっては父と告別するための式、それだけだった。

 

それでも心は揺れた。

ここまで、もっとゆっくりと無理のない日程ではできなかったのか。

参列者の人数の把握、花かごの注文とりなどのやることに追われ

頭痛を常に抱えたまま過ぎた数日を思い返し、逡巡していた。

それよりもすべきことは他にあったのではないか。

 

父とご縁ある方々とゆっくり話す時間がなかったことも残念でならない。

すでに父の兄弟姉妹は亡くなっており、父をよく知る人はいなくなっていたが

それでも父に関するそれぞれの思い出をたとえ少しでもいい、聞きたかった。

リラックスした和やかな時間の中で泣き笑いしながら

父を見送るその時間を愛でるような過ごし方はできないのだろうか。

  

今の葬儀システムは横暴だ、ひどいと私の目には映った。

誕生と同じく大切な区切りである死に対してさえ

心をなくしたかのように忙しく

そして決められた枠にはめ込んでやり過ごすかのようだ。

 

厳かに滞りなく進ませることが何より大事といった空気の葬儀の中

私は思い切り泣き叫んだ。

火葬に向かう父を思い、これでいいの?!という私の反抗心もたぶんにあった。

  

一般的なやり方で進めることが父のためと思い

私たちにとってこれが精一杯だと思い

何もできないとあきらめ、逆らいはしなかったが

やはり私にとっては一連のことがおままごとのようだった。

形はなぞっているけれど

参列者のかなりの割合の人が宗教的に信じて行ってはいないのだから。

 

親の死はいろいろなことを学ばせると言われる。

結婚について、死について、宗教について、私にはたくさんの気づきがあった。

ともすればそんな思いにとらわれ埋没してしまいたくなる。

が、決してそこに執着せず、日常の中で静かに感覚を研ぎ澄ませていたい。

 

しばらくはさまざまなことに感じやすくなってちょっと疲れるかも。

これが今の正直な気持ちだ。