隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

外国人にも定型どおりにお願いします

 

前のテーマの続きです。

 

「今日はちょっと・・・」の言い方は断りを表すと勉強した韓国人の学生が

さっそくバイト先で使ってみたそうです。

「そしたら先生、全然わかってもらえませんでした!しつこく言われました!!」

う~ん、これまたややこしい。

 

日本人のその人は

そう口にしたのが日本人じゃないので、言葉通りに受け取った、理解したのでしょう。

だから文字通り、ちょっと・・・ならもうひと押しと考えたのでしょう。

あながち間違っているとは言えないかな。

 

日本語教師であれば

「それって完全に断ってる?」ともう一つ質問を重ね、はっきりさせるところです。

もしそうなら

「日本人の言い方よくわかってるやん!勉強したね」とにっこり笑いもします。

断られても、最後は笑って終わりたいですし。

 

日本に住む外国人が増えていく状況の中で

日々、外国人学生に接し

彼らがどんな勉強をしてきているかをわかっている日本語教師

社会に役立てる場は、けっこうあるかもしれません。

 

日本語能力試験の何級を持っているかで

語彙の難易度もコントロールできちゃいますからね。

 

ハイコンテクスト文化のNIPPON

 

読解用のテキストで

「その日はちょっと・・・」と言われたら、それは行かないという意味です

つまりは断られています、という内容のものがあります。

問題はその先。

断られたその先の説明はテキストにはありませんでした。

 

「で、他の日を提案したんですよ。そしたらまた電話するって」

「電話は?来ましたか?」

「いや、それが来ないんです。どれくらい待ったらいいですか」

あ~やっぱり。

「初めの言葉ですでに断っていたんですよ」

「行く気があるなら、初めのときに『〇日ならいいけど』と言いますよ」

そこで学生は悲しい顔になります。

断っていたのだと知った寂しさと、日本人との会話は難しいという思いとで。

 

昨日、ある人にちょっとした相談の電話をしました。

初めに答えをもらいましたが、疑問は消えなかったのでさらに説明しました。

すると、前の答えをもう一度繰り返されたのです。

前とまるっきり同じ調子で。

つ・ま・り

これ以上の答えは出す気はない、これ以上考える気もない、ということです。

私はさっさと電話を切りました。

 

さてこの対応、外国人であればどうでしょう。

繰り返し=もうこの話は終わり、と読めるでしょうか。

同じことを、同じトーンで繰り返したことに、不誠実さを感じ喧嘩になるかも。

「それは私が答える範囲ではないんですよ(昨日の場合はそうでした)」

と直接言えばわかりやすいでしょう。

かえって親切かもしれません。

でもそうしないのが日本語の特徴であり、ハイコンテクスト文化です。

 

これって、外国人にはなかなか面倒だろうなぁ。

初めの質問をしてきた台湾人の困った顔を思い出しながら、ちょっと同情。

 

「だからね、そういうときはどういう意味?って質問したらいいんよ」

「質問しました!そしたらまた連絡するって言われたんです」

 

あ~なかなか手ごわいなぁ、日本のやり方。

 

ハイコンテクスト文化ねぇ。

日本の中では京都はスーパーハイコンテクストなんでしょうね。

だから京都が好きという人もいれば、だから面倒で嫌いという人もいる。

 

この文化も、クリアしがいがあるという点では興味深いですが

問題はそこまで忍耐がもつかどうか。

もたないで、わけわからん!とあきらめて帰国してしまった人も

過去にたくさんいました。

 

ま、いいよね!

自分の性格、嗜好、志向に合う国に住むのが無理なくていいんだから。

 

私がFacebookには手をださないわけ

 

以前はしていました、Facebook

でもあるときから、ビジネスがからんだ投稿の多さにやめました。

いや、正面切ってビジネスはいいんですよ。

たとえば小さな商店などの宣伝とかには使いやすいツールですし。

私が苦手なのは、ビジネスを狙っての嘘と本当のギリギリラインの投稿。

裏読みするのに疲れるんです。

 

でも先日ちょっと必要があって、フェイスブックに久しぶりに登録してみました。

そしたらとたんに入ってくる知らない面々のアカウント情報。

それもほとんどが夫の国の人たち。

あ~これが苦手だったんだと思い出しました。

 

自撮りが大好き、私生活さらすのが大好き。

おまけに時間に余裕がある人ばかりなのか、この国は!!

と毒つきたくなるほどに投稿数は多く

友だちの数も私からみると天文学的数字で、正常だとは思えない。

 

波に飲み込まれるぅ、渦に巻き込まれるぅ、息ができないぃ~~~~。

だからフェイスブックはやりません。

外国人との連絡をとるのには非常に便利なSNSだとは思うんですがね。

 

何を言うかが知性、何を言わないかが品性

 

最近、TwitterInstagramにすっかりはまっています。

 

初めは、インスタはお楽しみ、ツイッターは情報収集と分けて考えていたのですが

最近はどちらでも何かつぶやき

返信をもらったり、いいね!をもらったりして嬉しがっている。

 

まずい!目の疲れがひどくなる。

それでなくてもパソコンに向かう時間が増えているのに

パソコンの合間の休憩にスマホを眺めている始末。

 

さて、さて、タイトルの言葉はどなたかのつぶやきからいただいたもの。

おしゃべりに拍車がかかるお年頃なので

何でもかんでもラインで伝え合い

あやうく品性を失いかけていたときに出会いました。

 

品性を大切にする人でありたい。

 

ハーフ会っておもしろそう

 

タイトルの能天気な言葉は、ハーフではない私。

そんな言葉を投げかける私に娘はいう。

「いいわぁ、いらんわぁ、なんかめんどい!」

 

ハーフばかりが集まる場に誘われることはあるらしい。

予定が合ったら行ってもいい程度には思っても、結局ほとんど足を運ばない。

彼女の中での優先順位は低いということだろう。

 

ハーフの人との付き合いを避けているわけではない。

そういう場ではなんかほっとする、とも話していたことがある。

年に一度のキャンプが毎年あった頃は

きっと集まる皆にとって心からくつろげる場所だったのだろうと思う。

そんな場を作りたくて、親である私も必死で連れていった。

 

でも今は「おもしろいかもしれないけど、う~ん、やっぱりいいかな」

つまり、いらんかな、と判断する娘。

頭でっかちに考えすぎず、でもきっぱりと迷いなく判断を下す娘は

私から見ると、とてもたのもしい。

 

母である私には、その理由がわかる気がする。

無所属でいたい、何色と決めつけられたくない、自分は自分でしかない。

ハーフ会で集まることによって、その色がつく。

自分の中のもやもやをはっきりさせたいのだろうけれど

そのもやもやって、永遠になくならない。

答えの出ない問題を抱えながら生きるのは、だれもが同じだ。

その答えを探すのに同じ境遇の人たちと集まりたいという必要性が

娘にはないのだろう。

 

そりゃ、そうだ。

ハーフといっても欧米系かアジア系か、どんな教育で育ったか

正直にいえば、経済的に豊かだったかどうか

その差はときに大きすぎるほどに大きい。

ハーフ会の中でもきっとグループ分けが自然とされる。

小さい日本という社会の中での、さらに狭い社会の中で

マウンティングじみた光景など見たくない。

 

群れるのってね、かえってしんどいよね。

 

これが

外国人である夫よりも、よっぽどお母さんの方が外国人っぽいと子どもたちにいわれる

私の見解だ。

 

こんな思いは子どもの頃からあったな、そういえば。

私は私。

どんな境遇で生活しても、ずーっと変わることなく生きている。

 

日本では〇〇人、〇〇に行けば日本人

 

朝の番組で、たまたま中国残留邦人の通う介護施設の紹介があった。

 

年をとってから日本へ帰ってきたものの

30年以上、それも一番活動的な年代のときに過ごした国での習慣は

なかなか変えられない。

「私ら、日本では中国人と言われ、中国では日本人と言われる」

 

中国特有の香辛料が使われた料理、中国語が話せるスタッフ。

当たり前にされる中国語でのおしゃべり。

ここではまるで生き返ったかのように楽しいらしい。

慣れ親しんだ景色、味、言葉が広がる環境は、何よりほっとするのだろう。

緊張を強いられる環境は、年をとればとるほどきっとしんどい。

 

「日本では中国人と言われ、中国では日本人と言われる」

 

あれ、こんなフレーズ最近、何度も耳にしている。

Twitterで拾うハーフの人たちの言葉だ。

「私たちのアイデンティティーはどこ?」

「どうして初対面の人にいきなり、アイデンティティーについて質問するかなぁ!」

若い人たちの鼻息は荒い。

 

高3の息子に「大阪なおみさんって日本人だと思う?」と聞いてみた。

「思わん」と即答。

「どうして?」

「日本語できひんやん」とこれまた即答。

いつも率直な言葉を吐き出す息子だが、ときに真実が見えドキッとする。

 つまり…育った環境・文化がその人をなす軸ってことやんな、彼の言いたい真意は。

 

もう、〇〇人とかどうでもいいと思う。

それよりもどこで幼少期や青年期を育ちましたか?の質問の方が

よっぽどその人をつかむのに手っ取り早いんじゃないかしら。

 

 

*****

 

しかし成人後、来日し、日本人と結婚してしまい

日本に住んで30年になろうとしている夫の言葉には、いつまでも違和感がある。

「日本なつかしいわ」

「日本のごはん食べたいわ」

母国での滞在が長くなると決まって出るが、なつかしいって…??

そちらのごはんが生まれたときから慣れ親しんだ味じゃないの?

何度言われてもすっと共感できない、ゴメンやけど。

 

そして最後に決まってこう言う。

「家族がいるところが日本やからなぁ」

つまり、家族がいるところが彼の帰る場所という認識らしい。

 

こんな生の声を耳にすると

やっぱりアイデンティティーがどこ?なんて話はどうでもいい気がしてくる。

 

黒人、白人、黄色人種・・・人種って何?

 

「黒人女性です」の大坂なおみさんのひとことに揺さぶられた。

 

人種ってどこから来てるんだ?と自問自答した。

見た目?体質の違い?気質の違い?

つまり、体と考え方の傾向に関係している違いを種類分けしたのが人種?

 

で、さらに問いは続く。

その違い、その種類分けが何をもたらすの?

違いは違いであって、上下をつけるものではない。

優れた部分は素直に称賛し、自分にないことにはうらやましさを持ちつつ

だからこそ、自分の中にあるはずの優れた部分を必死で探す。

で、見つける。

そして嬉しくなる。

そしてまた、他の人種ならではの優れた点を素直に眺められる。

これで、いいことサイクルになるんじゃない?

 

人種の違いを淡々と話すことには、なんら害はない。

 

でも、この優れた点っていうのも、何を基準に優れたと判断するかが問題。

たとえば、おおざっぱとおおらかのように

見方によって言い換えができる気質などは優劣なんてきっとつけられない。

やっぱり違いは違い、それだけなんだなぁ。

 

国ごとに、これまでの歴史の中で優勢な人種が存在していて

今、それがおびやかされる不安からの過剰反応だったりするのかなとも思う。

これはアメリカに限らないけど。

 

違いは違いであって

細かいこと一つ一つのことに対して優劣がつくかもしれないけど

トータルしたら優劣なし!

したがって公の場での差別はなし!でいいんじゃないかな。

 

個人個人の好き嫌い、合う合わないは、この際は別問題。

公私混同はいけないし、私的なお好みもないがしろにしてはいけないと思う。