隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

お金があって好きなことができて…

 

ひとつ前に書いたものの続き。

 

「お金があって好きなことができていいですね」

「家がきれいだから、よけいにきれいに保とうと思えるでしょうね」

 

口に出すか出さないかはそのときどきだが

本の中に書かれているこんなつぶやきは、私の中にもあった。

で、つぶやいたそばから

なんだか卑屈だなぁ、カッコ悪いなぁと感じていた。

 

森博嗣氏の本の中では、この言葉、バッサリ切られました。

好きなことをしたいから金を稼いだだけだ、と。

 

本のタイトルは「素直に生きる」とありますが

自分がそうできない理由を、他の違うことに目を向けてごまかしていた。

そうなれていない自分となれている人との違いをさがし

自分ができないのはその違いがあるからしかたないと納得させていた。

これってイソップ童話の中にもあった話でしたっけ。

 

本当はただただ認めればよいんでしょう。

す・ば・ら・し・い!と。

まだまだ私は素直ではなかったようです。

 

事実を素直に受けとめることができれば、怖いものなど何もない。

あとはやるかやらないか、だけ。

やらないなら、やれない理由をあれこれ並べ立てず

やれない自分をただ素直に受け入れるだけ。

 

森博嗣氏「素直に生きる100の講義」

 

「時間がないからやれない…ではなくやれないから時間がないのだ」

 ・・・ふむ。

「頭がいいから勉強ができるのではなく、勉強ができるから頭がいいように見える」

 ・・・ふむふむ。

「高すぎて買えないのではなく、買えないものを高すぎるというのだ」

 ・・・そのとおり!

 

時間がないからやれない、は後付けの言い訳だとも書かれている。

そう考えて、できない理由にしておく。

そう思い込みたい心理がある、とも。

 

軽くショックを受けた。

いつの頃からか、私はまわりから忙しい人と認識されている。

それを喜んでいるつもりはなかったが

まぁ、その通りと受け入れていた。

 

でも、やれないのは時間がないからだ。

じゃあ、やれるためには時間をもっと有効に使っていくしかない。

この事実をもっともっともっと厳しく刻みこまないと永遠にやれない。

 

本では、原因と結果を逆にするなといさめているが

原因と結果を逆にする云々より、事実から目を背けるな、

距離を置いて、他人事のようにして逃げるな、というように私はとらえた。

 

頭がよくなりたかったら勉強するしかない。

 

高すぎると嘆き寂しく思うのではなく

買えないものは自分にとって高すぎるのだと淡々と受け止めよう。

 

事実をそのまんま受け入れる

そのあとに、自分のペースでの努力をちゃんとつけ加える。

これがカッコよく生きるコツだ、きっと。

 

だれに対してもニュートラル

 

トップとその直属の部下たちが韓国人という会社の話をしていたときのこと。

 

「え、みんな韓国人なの?知らなかった。〇〇さんと〇〇さんは知ってたけど」

と明るく話す私に、友だちは声をひそめるように言う。

「みんな在日だと思うよ。ま、そこはつっこむとこじゃないけどね」

彼女は私をたしなめたつもりだったのかもしれない。

 

しかし、私は思う。

声をひそめ、口を閉ざす…これこそが差別している証拠だと。

在日という呼び方は好きではない。

ただ単にルーツが韓国にあり、今日本に住んでいる。

それで十分ではないか。

日本に来た経緯が問題だというのは知っている。

無理やりだったのか、半ば自らすすんで来たのかは個人によって違うだろう。

でも今はもう次の世代が十分な大人になっているのだ。

在日と声をひそめるのは古いと思う。

 

ただ私が言いたかったのは

ルーツが韓国にあるのなら当然、純日本人とは違う感覚があるだろうなということだ。

ハーフであるうちの子たちのように。

それを話題にすることがどうしてよくないことなのか。

私には疑問だ。 

 

自分のルーツについて当たり前にまわりに伝え

受ける側は、ただそうなんだと受け止めればいいだけなのに

どうして言う側が緊張したり、聞いた側があせったりする必要があるのだろう。

・意識していないふりを装う

・日本人のように振る舞えることをほめる

・日本のルールに従えないことに対し気の毒に思い、世話を焼きすぎる

これらはすべて、国際的な国の国民にしては不十分、まだまだ途上だと感じる。

 

日本人のようになれないことを、そりゃもっともだ、とただ受けとめる。

感情は入れない。

じゃあ、どうしましょう?どこか困ってる?手伝いいる?

これだけの言葉で十分だ。

 

深く思いすぎない。

事実をそのまま、軽くも重くもせず受け止める。

相手が日本人のようになりたいと思っていない可能性もおおいにあると

ちゃんと頭に置いておくだけの知性、広い視野は持っておきたい。

 

ニュートラル。

車でいえば、ギアが入っていない、力の入っていない状態のこと。

人、みなすべてに、ニュートラルに接することが私の目標だ。

 

 

簡単=低レベル?

 

言葉への意識は子どものときから高く、今も日本語を生業としている私にとって

志村けんさんのギャグやコントは品がなく程度の低いものだと感じていた。

 

国際結婚をし、夫が彼のファンになり、彼の番組をよく見ていたときも

おもしろいのはわかる、確かに笑える、でもなんかバカみたい。

そんなふうに冷めていた。

いっしょに笑いながらももっと上質なもので笑いたいなんて思っていた。

 

そう思って落語にいっしょに行こうと考えたこともある。

でもどんなに日本語がじょうずになっても

落語のおもしろさを理解するまでになるのは年季がいる。

そんな夫にとって志村けんさんのギャグは簡単に笑えるのである。

 

彼の笑いは、体の動きから来るらしい。

そして、そのおもしろい動きはすべて研究し尽くされたものだった。

手の振りの角度、大きさ、ひとつの動きを繰り返す時間の長さなどの数々の練習。

この粘り強く笑いを追求する姿勢は

リーダーであるいかりや長介さんから学んだことだそうだ。

 

 大勢の人を何度も笑わせることができた彼は

まさに笑いのセンス、ひらめきに満ち溢れた人だったのだろうが

それらに加えての努力もきっとあったに違いない。

 

簡単=低レベル、と思っていた。

学校の勉強ではより難しい問題を解ける人の方が頭がいいとされるからだ。

でも、簡単に見せるということは決して簡単ではない。

 

 

自粛しての収穫、ありました!

 

自粛疲れ・・・なるほどなぁ。

いつも自分がしていることが当たり前にできず、家にいることが多い日々。

仕事さえ休みなら、あれもしたい、これもしたいと思っていたのに

それらは家の中ではできないことだったりすると

結局、何もすることがないとなってしまう。

 

でもそれってなんだか貧しくないですか。

外に行く、あれを買う、あれを楽しむ。

もちろんいくらでも思いつくことがあるけど、いずれもだいたいお金がかかる。

つまり他の人が提供してくれた楽しみを買うというだけ。

自分がチョイスするわけだけど、自分が考えたわけでは全くない。

 

友人たちは、手作りマスクを作りまくっている。

で、成人し子どももいるような娘にいくつもあげている。

その娘さんもきっと久しぶりのお母さんの手作りにきっと喜んでいる。

こういうことこそが、楽しくて心豊かになる時間の使い方。

 

マスクひとつとっても個性が表れ、本当に興味深い。

 

仕事では厳しい、効率重視の人が、かわいいメルヘンチックな柄のマスクを

ミシンでなく手縫いしていたりというギャップがあったり・・・

いつもクールな女性が、シンプルながらさりげなくおしゃれで

それでいてほっこりおおわれる安心感が伝わるマスクを作り

仕事だけでなくすべてにおいて手抜きしないんだと再認識させてもらえたり・・・

家にある布を総動員しました!とでもいうようなにぎやかなマスクが

だれがそんなに使うねん!とツッコミたくなるほど大量にできていたり・・・。

たかがマスクひとつとっても、個性が満ち溢れていて

笑えます!楽しいです!

 

いろいろなことが起こっても、決してあわてず

そのときにできる最善のことをしていく。

お互いに温かい心を交換していく。

それさえできれば怖いこと、不安なこと、嫌なことなんてあまりないのでは。

 

温かい心の交換が、生きる意味ですよねぇ。

そんなことをふと思った今回の自粛。

 

どうでもいいことはどうでもよし!

 

障がい者施設での仕事は大変?

大人なのに子どもみたいな部分を見せる人たちに関わるのは

確かに大変かもしれません。

でも子どもみたいであってもやはり大人だからこその深い思いも感じさせられ

私にとって学びの種は尽きません。

 

まっすぐに自分の思いをぶつけ、考えるよりも先に行動してしまう子ども。

自分に余裕がないだけに、残酷なことを平気でやったり言ったりできる子ども。

そんな子どものような言動をしつつも

長年生きてきたからこその複雑な表情も見せてくれる方たち。

 

日常生活の中

たくさんの役割を持つ大人であれば、ときに割り切りもあきらめもします。

そうしないとまわっていかないからです。

時間は有限、自分の手も二本しかないのですから。

でも障害のある人たちは、たくさんの役割を持たない立場だからか

ひとつの思いには全力でこだわりを見せます。

そしてその思いの強さに、こちらの心も揺さぶられるのです。

感動して涙することもたまにあります。

たったひとつのことに思いを込めることってなんて力強いんだろう。

 

あれもこれもできるから、あれもこれもに時間も気持ちも使ってしまいます。

でも本当に大事なことは実はそんなにたくさんはないんじゃない?

本当に大事なことだけに絞り、それを重ねていくことが楽しいことなんじゃない?

そんなことを思うようになっている私にとっては

障がいのある人たちの物事への向かい方は、お手本のようでもあるのです。

できることが限られた中でこれだけは!と必死にこだわる。

それ以外のことは不要とばかりにばっさり斬る。

その姿勢って見習うべきことじゃないかと思うのです。

 

あれもこれも知ることができ、あれもこれもできる気がしてしまう。

自分にとって関係ないことまで知っておく必要はない。

あれもこれもに手を出す必要はない。

何もかも簡単に手に入り、やれる便利さのある今の時代だからこそ

考えすぎないよう、やりすぎないよう

意識して削っていかなくてはいけません。

油断してそれを怠けていると

情報に振り回され時間を無駄にし、そんなに大事じゃないことに時間を費やし

充実した生活と思い込む勘違いが生じてしまいます。

 

そして、なんとなくいつでも忙しく

他の人のことを丁寧に考える気持ちのゆとりをなくし

相手のスケジュールや気持ちのペースに合わせることができなくなり

いつのまにか大事な人たちと疎遠になり

突如寂しさに襲われる。

 

そんな自分に気がつかせてくれる障がい者施設での仕事。

なかなかやめられそうにありません。

 

 

二人の違いが~差に見えて~♪

 

コマーシャルでこの歌が流れるたびに、つい聞き入ってしまいます。

初めて聞いたときに、違い、、差、、なるほどなぁと感心し

以来、流れるたびについ手が止まります。

そして映像の姉妹の表情に自分たちを重ねたりしています。

 

三人姉妹の真ん中である私は、姉の立場にも妹の立場にもなれるわけですが

なぜだかこれは、姉の立場から見ています。

そして妹のことを思うのです。

妹も、違いを差と思って苦しんだときもあったのかな。

ま、きっと「そんなふうに思ったことないよ」と笑うでしょうが。

 

お互いに大人になって、それぞれが家庭を持ち

夫という他人が加わったことによって一定の距離を置くようになる。

これはたぶんいいこと。

しかし子どもたちがそれぞれ成人し、夫婦の関係も落ち着いてくると

本来の自分に返っていくように思います。

そう、子どもだった頃に。

だからこそ今頃になって聞くこの歌が心に迫ってくるのでしょう。

 

わが娘も三人兄弟の真ん中。

私と違って上下は異性である兄と弟。

その弟をいつも気にしているかのような言動は、はたから見るとちょっとせつない。

弟本人はときにうっとうしがっているからよせばいいのに

気にせずにはいられないという

自分でもすっきりしない思いを抱える姉という立場。

いじらしいと言えなくもない。

でも、冷たくされても全然響いていないところは勝手だとも見えます。

親子間とちがって年齢が近いだけに弟への理解度も高く

「それもありでしょう」とすべてを簡単に許し、また思い続ける。

それだけにしつこいといえるのかも?

 

他人のことは本当のところどうでもいいを地でいくかのようなドライな娘ですが

対・弟だけはドライではいられないようです。

どこかでいつも気にしてる。

  

なんでだろう。

子どもの頃に、子どもだけにしてしまったたくさんの意地悪への罪悪感?

姉の理不尽な言動を疑いもせず信じてくれたことへのお返し?

 

いつも、ただ姉というだけで慕い従ってくれた思い出の中の私の妹は

本当にかわいかったし、いじらしかった。

疑いのない純粋な心。

なんて貴重なものを惜しみなくくれたのでしょう。

 

「いやいや、実は疑ってたよ」と言われたら少しはすっきりするかな。

「でも、それでもやっぱり慕って信じてくれてたでしょ?」

姉の、勝手な思い込みは、かなり強力です。

 

う~ん、面倒な存在かもね。

すみません!