隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

みんなちがってみんないい

 

先日、スピーチ原稿を書かせる授業での学生からのひとこと。

「先生、本音で書いていいですか?」

見ると、彼女の原稿には

「初め、日本人はやさしいと思っていました」と書き出されています。

この先にどんな言葉が続くのかは予想がつきます。

聡明な彼女からどんな言葉が紡がれていくのか非常に興味あるところで

もちろん二つ返事でOKしました。

楽しみです。

 

来日してすぐの学生は口をそろえてみな言います。

「日本人はみんな優しいです」と。

しかし日本語もじょうずになり、生活にも慣れてくると変わってきます。

優しいの反対、厳しい、へと。

 

厳しいというのは性格の問題というより

ルールを守らせようとすることから来ている厳しさのようです。

常々、日本人はルールにのっとって動くことに長けていると思っていました。

ルールを決め、その通りに進むことに快感を覚える人たちなのだろうとも思います。

私の中にも、またいい加減に見える外国人の中にも

もちろんそういった快感はあります。

しかしルールを大事にするあまりに押さえつけられた個人の感情を貴重なものと思い

人の心が通わない時間やその末に得た結果におもしろくなさを感じれば

きちんとすることなんてアホらしい!と叫びたくなるのです。

 

でも、効率的に便利にいろいろなことが進む日本のシステムが好きなら

それを享受しているのなら

その邪魔はしないでほしいし、そのシステムに自分たちも沿うよう努力してほしい。

ルールの話をするときにこれははっきりと伝えます。

夫にも、また学生にも。 

でも「わかってる!でもできひんねん!」と夫はいいます。

昔の私であれば「できるように頑張る気なんてないでしょ?!」と毒つくところですが

今の私はそうだろうなぁと受け止められます。

自分の中でも、変わりたくても変えられないことありますから。

 

自由にゆるく生きてもよさそうな外国で、生真面目に生活しているわが友人。

日本人は面白くない、いつまでも距離を感じる、と思われているかもしれません。

持って生まれたものを変えるには時間がかかる、ときに無理ということでしょうか。

 

みんなちがってみんないい、と心から思えるまで

まだまだ右往左往中なのでした。