隣を見たら外国人

異文化への興味は尽きず、今でも街で外国人を見かけるとつい目がいき「あ、外国人だ!」とつぶやいてしまう。でもふと隣をみると当たり前にいるわが外国人夫。ま、こんな夫婦関係でなくても、当たり前に近くに外国人がいる社会もいいかなと思っています。

oto、kanshoku、だいじ

 

久しぶりに友達に手紙を書きました。

量を書きがちの私はいつもエアメール用(今もある?)便箋を使っていました。

 

ペンが便箋に当たる小さな衝撃。

前に書かれた文字をなんとはなしに眺めながら書き進めていく感じ。

感覚が総動員されていると感じます。

 

いつもの通りあっという間に便箋3枚。

今回は普通の厚さの便箋を使ったのでこのへんにしておきましょう。

あとは切手を貼って、ポストに出す。

 

そんなひと手間がいいか悪いかは今さら言わないけど

スピードや便利さが一番ではないと感じました。

 

感覚を鈍らせないこと。

ココロ動かすこと。

それが「生」の実感だから、だいじにしたいと思いました。

 

仕事は効率よく、スピーディーに進めたい。

確かに。

瞬時に返ってくる返信は確かに心地いいです。

 

でもね、人間ってそんなにスピーディーに生きるのが似合う生き物だっけ?

 

・・・ふと、一生に打つ鼓動の数は動物みな同じという言葉を思い出しました。

 

 

OCS:どこ目線で作られたシステム?

 

海外に荷物を送るのに素人でもわかりやすいのは郵便。

でもコロナで郵便が使えない。

OCSを使うしかない。

 

それにあたっての入力事項が多すぎる。

インボイスを作って荷物に添付して送る、基本それだけでしょ。

なのに、あれやこれや入力するものがある。

 

毎月たくさんの荷物を送る会社には便利だろう。

事務のエキスパートもいるだろう。

でも一回だけ、もしくは半年に一回だけ送る人にとっては不親切きわまりない。

 

もちろん入力のためのマニュアルが丁寧に作られている。

専門用語が並びまくりでわからない。

結局、電話で尋ねることになる。

 

このシステムを作るためにどれだけの時間をかけたのだろう。

その結果、どれだけの労力が削減されたのだろう。

かえってこんなふうに手のかかる顧客を生んでいる。

 

過去に一部上場企業に勤めていた。

海外営業部に所属していたので、こういった事務手続きの煩雑さは少し想像できる。

そのときもこういったフォームやマニュアルを作っていた人がいた。

でもそれはお客様目線ではなく、あくまでこちらの管理がしやすいようにだった。

 

ビジネス全体の中で、小さな荷物を海外に送ることなどはメインでも何でもない。

それだけのことにどうしてこれだけ面倒なことが必要なのかが理解できない。

こんなに利用しにくくして、何様なんだ!と毒つきたくなる。

OCSにとってみれば、こんなわかりの悪い客はいらない!のかもしれないが。

 

コロナ禍はこんなところにも表れている。

 

Twitterでの議論は楽しくない

 

Twitterに相変わらずハマっています。

共感するコメントにはいいね!を押し

なるほどと思わせてもらったときにはコメントを残したりしています。

逆に共感できないときやちょっとおかしいんじゃない?というときにもコメント。

自分の中ではおしゃべり感覚で書いていて

相手のコメントもおしゃべりの延長なんだろうと思い込むことにしています。

  

自分とは違う考え方を知り、感心することもしばしば。

そこってそんなに強くこだわって主張するところ?とびっくりすることもしばしば。

 

声が大きい人、強く言い切る人がいれば、その人に盲従する人がいる。

盲人が突然目が見えた感激と同じで嬉しくなって、ついていきたくなるのかなぁ。

 

時に厳しい議論に発展することも。

見守って、眺めているだけでもドキドキする。

いや、うそ。

おもしろがっている。

 

違いは違い、差ではないと理解して、熱くなりすぎないでいられないものかと思う。

若いなあとも思ったりする。

 

限られた字数で議論など不可能、おしゃべり程度がせいぜいだから

議論になりかけたらさっさとひく。

相手も議論すること望んでいないでしょと思い込むことにする。

 

議論は言葉だけでするものじゃないと思うんですよ。

相手の顔を見て、にやっと笑い合ったり、押したり引いたりがおもしろいのに。

そんな楽しみのない議論なんて、得るものがあまりないと思う。

 

勝ち負けがつくだけ。

その勝ち負けも時代が変われば答えも変わる。

う~ん、やっぱりあまり意味がない。

 

とにかくTwitterはおしゃべりにとどめておくに限ると肝に銘じておこう。

おしゃべりを商売につなげようとするのもまぁありか。

実際の生活でもそういう人いるものね。

 

ときには器官を休ませよう

 

個々の器官は忙しくなっている。

 

学校に通う子供たち(高校生)の耳には常にイヤホンが入っている。

電車に乗れば、車窓に映る景色を眺める人は少なく、皆がスマホを見つめている。

遠くの景色を見ると目によいとわかっていても。

 

耳からの情報、目からの情報が脳に伝わり

それにともなって頭も忙しく働く。

学校へ向かう学生、仕事に向かう人たちにとっては

いいウォーミングアップだろうか。

学校に着いてから、会社に着いてから、すぐに動き出すための。

 

なんて忙しい国になってしまったんだろう。

 

珍しく連休になった数日、久しぶりに編み物をしてみた。

スヌードなのでひたすらまっすぐ編むだけ。

お気に入りの毛糸さえ手に入れれば、気軽に楽しめる。

模様にもよるが、数日で仕上がるというのも嬉しい。

 

いつもは字ばかり追っているが、このとき見るのは編み地の模様。

久しぶりなので、指の運びがまだまだ定着していないせいか

つい目飛ばしをしてしまうので、ときどき全体を眺めなくてはならない。

 

お気に入りの毛糸が目に映り、やっぱり好き、この色などと思う。

このスヌードをする人のことを思い、編み棒を進める。

静寂の中、心が静かに落ち着いてくる。

 

ときどき頭に浮かぶ仕事のこと。

どんな声かけで人は動くのだろう、どうサポートをしていけばいいのだろう。

考えるとはなしに考えているが

手は編み物をしているので答えを出そうと必死にはならない。

まず相手の話すことを聞かないとね、と思う程度。

 

方法の良し悪しよりも自分自身の意図、心もち。

そこに立ち戻るには、静寂が必要なのかもしれない。

雑音が入りすぎない状況で時間を贅沢に使い、頭を遊ばせられる静けさ。

 

方法に正解はない。

いつもうまくいく声かけなんてたぶんない。

意図さえ正しければ、パッと見にはいいことと思えなくても善い行動なのだ。

 

善い行動さえできていれば、自分にとっていい結果がくる。

いいとは思えない結果であっても、タイミングが悪かったとしても

きっと自分にとっては最高の結果が来るはず。

こう信じられれば迷うことは何もない。

 

 正解が見えにくい情報過多の世の中だからこそ

自分の意図の奥底までも見つめ、整えながら進むことは大事だと思う。

 

本当は何もしないでヨガのポーズをするんでもいいんだけどな。

そこがまだまだ忙しがりから脱出できず、編み物なんぞしてしまっている。

 

時間にけちって、はずかしいな。

こう思えるようになった私は、昔より少し人間らしく生きている。

 

JLPTって知っていますか

 

2020年7月のJLPT(日本語能力試験)がコロナで中止になった。

 

その頃、私が勤めていたのは、とある日本語学校

もちろんショックを受けた学生も数多くいただろうが

学生全体が、ただしかたがないと受け止めているように見えた。

 

今も勤めているが、あまり真剣味が感じられない。

まぐれで受かればいいとばかりに、自分の力以上の級を受ける学生もいると聞く。

いわゆる記念受験

「〇級、受けたんだけどね」と言いたいがための。

 

12月のJLPTを間近にひかえた今

私はまじめな学生がほとんどを占める専門学校にも勤めている。

 

そこの学生たちは、JLPTに向かい日々努力を重ね

授業中の質問も鋭く、正解までたどりつこうという粘りを毎回見せてくれる。

睡眠不足の理由も自主勉強だろうと思うと

授業中、眠そうでも放っておいてあげたいと思うほどだ。

 

そんな中、長野県がJLPT実施の中止を決めたというニュースが流れた。

香港でも中止になったらしい。

 

学生たちの前でその話をしたとたん、泣きそうに顔をゆがめる学生がいた。

「もしそうなったら、私は国に帰ります」

 

正直、驚いてしまった。

そこまで必死なのだ。

向かっている目標を見失ったら落胆し、帰国したくなるほどに。

そんな思いが伝わる表情に胸を打たれた。

 

JLPTが無事に実施され、彼らが合格することを心から願いたい。

 

日本人気質がウケる割合は13分の1

 

コロナ対策を、丁寧に継続的にきちんとしたり

お弁当を凝って作ったり

日本の製品は高品質だ、安心できると信頼されたり

これらすべて、日本人気質ゆえだとつくづく思います。

 

昨日の授業で、日本の手作り弁当をテーマとする読解があり

手作り弁当の力作写真(友人作)をパワーポイントで見せた後

学生たちに感想を尋ねました。

 

かわいいです!きれいです!すごいです!

じゃあ、作ってみたいですか。

無理です!作りません!面倒です!

将来日本に住み、子どもにこんなお弁当が食べたいと言われたら?

「想像しながら食べて」と言います!

(即答した学生の顔はすでに厳しい母そのもの^^)

 

お~強い!感心しました。

でもこれは、外国人だからはっきりと言えること。

なんとなくの同調圧力的な空気に屈し、つい無理することもきっとあるだろうなぁ。

もちろん日本人でも、仕事で忙しいを理由に作らないというのもあり(私)。

 

思えば私は、仕事を理由に、国際結婚を理由に

いつも同調圧力と静かに戦ってきたなぁ。

表立って戦うと角が立ちますからそこは上手に。

 

次の世代が世の中の中心になるときには

こんな同調圧力は消えていることを願います。

だって、非常に、非常に疲れますもん、この戦いは。

 

ちなみに13人中1人だけは、日本人の作るお弁当が気に入ったようで

海苔を駆使して、かわいいキャラ弁に挑戦した写真を見せてくれました。

 

そうだよね、日本人の細かいこだわりをよしとし、自分に取り入れたくなる割合なんて

正直そんなものよね、なんてことも思いました。

いやいや、この学生たちは日本に興味を持って来ている学生たちだから

本当のところはもっと低いでしょうね。

 

隣じゃなくて、自分が外国人だった!

 

新しい人との出会いは楽しい。

が、今回は思わず大笑いするコメントをいただいた。

 

a:ここまでは?車で?

b:そうそう、ほんの20分で楽だから。

a:へぇ、えらいですね。ハンドルとか左側通行とか反対で大変でしょうに。

b:???……???

 

しばらくして気がついた。

話していたその人は、私のことを完全に外国人だと思っていたようだ。

 

夏に出会った人ならまだわかる。

夏は夫の国の民族衣装を毎日のように着てでかけているから。

でもここは職場。

もちろん普通の服装をしていた。

 

外国人と思った根拠を尋ねると

目が大きいし(うん、まぁ、そうかな)

堂々としているし(新しい職場なのに、態度でかかった?)

姿勢がいいし(背筋はいつも意識してる)

とにかくなんか雰囲気が違う、だそうです。

 

国際結婚なので、自然とお互いに相手に寄っていくところはあるでしょう。

夫も、自分の国に帰ると「おまえは日本人だ!」と怒られるらしい。

 

私を外国人と思い込んでいた人は、日本語うまいなぁと感心していたとか。

そりゃあ、ネイティブですから。

でも、驚いたことにさらに質問を重ねてきました。

「お父さんもお母さんもどちらも日本人?」

あはは、そこまでつっこんでくれた人は初めてで笑えた。

クォーターかもと思ってくれた?思いたかった?

クオーターかあ、なんか憧れる響き…。

 

結婚して28年になろうとしてる。

お互いに自然と寄ってきてるのかもねと話すと

それもステキですネと言ってくれた優しいその人は日本人。

夫の国の人は、けなす、悪く言うのオンパレードだったそうなのに。

 

本気で間違えられるまでになるには28年かかったなぁ。

で、今のこの感じは心地よくてもう戻れそうにない。